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偽善を恐れて、善いことができなくなるなんてもったいない

たまたま見かけた善行為に関する動画に、思わず見入ってしまいました。

内容はシンプルで、少しドラマ仕立て。

会社の面接に来た2人の若者と、正体を隠している会社の社長が登場します。

2人のうち1人は、社長の財布を盗んでしまう。一方でもう1人は、親切に接します。

結末では、その親切な行動をした人が優しい人物として評価される、というわかりやすい展開でした。

動画の締めくくりはこうです。

善い行いは素晴らしい。でも、「偽善っぽく見える」と思うと、気が引けてしまう。

だから進んで善いことをする人は、意外と少ない。

けれど、何もせずに「偽善だ」と笑う人より、小さくても行動している人の方が、ずっとかっこいい。

この言葉に、少し胸がチクリとしました。

なぜなら、昔の自分がまさに「偽善を笑う側」だったからです。

たとえば誰かがゴミを拾う姿を見て、「善人ぶってる」と斜に構える。

本当は自分も同じようにできたらいいと思っているのに、そんな気持ちを打ち消すように、皮肉な目線で片付けてしまう。

そういう感覚が、たしかにありました。

だからこそ、いざ自分が善いことをしようとすると、「どう思われるだろう」と気になってしまいます。

過去の自分のような目線を、他人も持っているように感じてしまうのです。

でも、善い行いを少しずつでも繰り返していくと、次第に「自然なこと」に変わっていく気がします。

「かっこつけてる」と言われても気にしない。

むしろ、何もしない理由に「偽善」を持ち出すのは、もうやめよう。

そんなふうに思えました。

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